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Monday, February 18, 2008
ヤス 単一民族論:一つの国が単一の民族によって構成されているという主張を含む言説。多くは事実であるよりも、神話やイデオロギーとして、政治的に用いられる。(広辞苑第五版) 「単一民族論」という言葉が広辞苑に登場するのは1991年出版の第四版からである。1986年の中曽根康弘首相の単一民族国家発言をふまえ、これが「排外的な政治イデオロギー」として取り上げられた(小熊英二『<日本人>の境界』539頁)。中曽根以降も色々な政治家が同様の発言をしてその度に問題になっているが、まずは最初の中曽根発言がどういったものだったのか見てみよう: 中曽根首相の発言内容は、「日本はこれだけ高学歴社会になって、相当インテリジェントなソサエティーになってきておる。アメリカでは黒人とかプエルトリコとかメキシカンとか、そういうのが相当おって平均的に見たら(知的水準は)非常にまだ低い」というもの。これが、米国の黒人やプエルトリコ人をはじめとする大多数の米国人の反発を招き、人種差別発言として大問題となった。 まず最初にアメリカ系アフリカ人に関して差別的発言をしたと批判され、その弁解の際にヤブヘビ的に口にしてしまったものらしい。文脈からして悪く捉えられてしまうのも当然ではあろうが、中曽根が実際に差別的意図を持って発言していたかどうかはとりあえず措くとする。仮に「日本は単一民族国家である」という発言が「アイヌ民族の存在を無視する」という排外主義を主張するものであったなら、それは一体どういう解釈によるものであろうか? この発言は幾つかの解釈が可能である:
1番目はナチス並のストレートな人種差別主義の表明である。批判者も、まさか戦後日本の首相がそこまで酷い排外主義思想の持ち主であるとは考えていないだろう。2番目のような意見は琉球民族(沖縄県民)に関して暫し聞かれる。アイヌに関しても、アイヌを縄文人と同じ原日本人に規定して斯様な発言がなされる場合がある。3番目は単なるうっかりミス、または事実誤認である。中曽根に関しては東京帝国大学法学部を卒業している人間であり、まさかアイヌの存在自体を知らなかったわけはなく、事実誤認の可能性は無いだろう。いずれにしろ、少数民族に対し無神経な態度であることを露呈してしまったわけであるから、それなりの問題ではある。そうした無神経な態度が少数民族のアイデンティティを尊重しない政策実施に無意識のうちに繋がる恐れがあるのは否めない。が、「排外主義」「差別主義」などと糾弾されるほど深刻な問題ではあるまい。 いずれにしろ、「アイヌ民族の存在を無視する」だけでは今ひとつ問題点が正確に掴めない。他の政治家の単一民族国家発言についてはどうだろうか: 自民党の鈴木宗男衆院議員(比例道ブロック)が二日、東京都内で行った講演で「私は(日本は)一国家一言語一民族といっていいと思う。北海道にはアイヌ民族というのがおりまして、嫌がる人もおりますけれど、今はまったく同化されている」と発言。また、平沼赳夫経済産業相も同日、札幌市内のホテルで開いた自民党の中川義雄参院議員のセミナーで「日本は単一民族」と発言していたことが、三日明らかになった…鈴木氏は三日、北海道新聞の取材に対して「一般論として言った。一国家一言語一民族というと嫌がる人もいるから、それを断って言った。差別的意図はなかった」と述べた。一方、平沼氏はセミナーでの講演で日本の経済成長について触れた中で「小さな国土に一億一千六百万人のレベルの高い単一民族でぴちっと詰まっている。この人的資源があったからこそ、あの大東亜戦争に負けて原爆まで落とされて、いまだにアメリカについで世界第二位の経済大国の座を守っている」などと述べた。(北海道新聞2001年7月3日) つまり単一民族国家発言は、少数民族の民族的アイデンティティを否定・軽視するものであるため、および戦前・戦中に行った強制同化政策による民族的アイデンティティの剥奪に繋がる発想であるため、問題にされている。これは上述の2に相当する。 しかし、同化政策自体は必ずしも差別ではないし悪でもない。「民族の自主性を尊重せよ」という多文化主義(マルチカルチュラリズム)の観点からすれば無論望ましいものではないが、同化させるということは仲間として受け入れるということであり、排外主義や差別隔離政策の対極である。この限りでは、政治理念の違いであり、「虚妄」や「嘘」などではない。 ただし同化でも、全ての民族が平等に「人種のるつぼ」(melting pot)のごとく融合し新たな単一民族へと生まれ変わるのであれば良いが、戦中・戦前の皇民化政策ように少数民族の文化・伝統を一方的に奪い、多数派民族のそれを押し付け「日本人化」させるとなると、やはり問題である。この「日本人化」の場合であっても100%悪意でやっているとは限らないが、今の世の中ではさすがに通らない理屈であろう。アイヌの人びとが怒るのも理解できなくはない。(続く) Labels: 哲学 この記事へのコメント:Subscribe to Post Comments [Atom]
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