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Thursday, May 5, 2016
「0戦はやと」のYoutube動画のコメント欄を見ていて、ふと思ったこと:
「テレビでゼロ戦のアニメが普通に流されていた時代。今では信じられない光景。と言う事は、恐らくこれ以降、1980年代辺りから左翼勢力が台頭して来たのではと。今じゃ左翼の権化の様なテレビ局もこんなアニメを放送していた時期が、そう古くは無い時代に有ったと言う事ですね。1980年代前後に暗躍した勢力有り。それが現在の日本を形作っている。」
↑のように、自虐史観の左翼がアニメに対して戦争美化してると批判している、けしからん、というコメが結構ある。まぁ確かにそういうことはあるんだけれど、そういう捉え方自体が、相手と同じ土台にのぼっちゃっているというか、なんか本質からずれているように感じるんだよね。逆に、太平洋戦争をアジア解放のための聖戦として描けば「右翼」は満足なのかっていったら…まぁ満足するんだろうけれど、それは何か違う感が否めないでしょ。太平洋戦争をどう評価するのであれ、ね。 何でかと言えば、こういうアニメ作品は、戦争賛美とか反戦とか、そういう政治的メッセージを盛り込んで主眼にするために作られたわけじゃないから。メッセージ性のあるアニメ作品も無論あるけれど、これは子供向けのエンタメ作品なわけで、かっこいいヒーローが悪者と戦いやっつけ勝利する様を楽しむのが本質。原作が戦争中に作られた作品だから、それが手短な舞台設定として採用されているだけのこと。 これがさらに前の時代なら、武将たちの合戦や剣豪のチャンバラを題材にした講談になるのかな。無論、そういう講談は封建制度や幕藩体制を礼讃してるわけじゃない。 仮面ライダーのようなスーパーヒーロー物も、ゴレンジャーのような戦隊物も、ウルトラマンも、マジンガーZも、この延長線上にあるわけでしょ。ヒーローが、零戦乗りから、よりSFちっくなキャラに変わっていっただけ。零戦、戦車、戦艦もロボットに変わっていっただけ。かっこいい乗り物に乗った、かっこいいヒーローが、大活躍する。それに憧れるのは男の子の本質。アメリカだったら、ガンマンやGIジョーがバットマン、スパイダーマンに繋がっているんかな。 そもそも「0戦はやと」の後も、宇宙戦艦ヤマト、ガンダムと、戦争をモチーフにしたアニメ作品はたくさんあるし…左翼の人たちはその都度「戦争美化」だとブーブー言ってたけれど、ガンダムとか、アニメ界が萌えに席巻されて久しい今でも、まだ続いているからね。左翼にだって暴力革命とか民衆蜂起とか好きな人いるんだから。実際、ガンジーよりゲバラが人気なわけでしょ。 ということで(?)、覚悟のススメはスーパーヒーロー物の原点回帰というか、究極形なんじゃないかと、改めて思った。 Labels: その他 Thursday, February 18, 2016
8年ぶり。↓の記事を読んで、何とはなしに思ったことをちょっとメモってみる。
「無駄? 働かないアリ、実は集団に必要働き者疲れたら働き出す 北海道大院チーム発表」(佐賀新聞2016年02月17日)より:
長谷川准教授は「一見無駄な働かないアリも、集団の長期的存続には欠かせない。人間も含め、短期的効率を求めすぎると、組織が大きなダメージを受けることがある」と指摘している。「短期的効率を求めすぎる」と、いわゆるブラック企業になるのかなぁと。これ、サービス残業好きな日本人の気質と、はまりすぎちゃったんだろうね。上から与えられたノルマを、自分を追い込んで、全てを極限まで切り詰め、達成しようとする。起業したりとか、あるいは社内に留まるのでも、自発的に何か新しいビジネスの道を模索するようなことは苦手、というかしない。 終身雇用の正社員が一般的だった時代なら、それでもまだ良かったんだろうけど、さらに効率の良い利潤追求を目指した結果、昨今のように非正規の契約社員、派遣社員が増えてくると、もう本当に地獄の様相を呈してくる。それでもやめられない日本人…それともどこかで転換期がくるのだろうか。 Labels: その他 Friday, February 22, 2008
マケイン上院議員 「ボクシング好き」が総合嫌いに繋がるというのは、日本人の感覚的にはあまりピンと来ないかも知れない。アメリカでは総合格闘技をボクシングと競合する新興の格闘観戦競技と見る向きが多い。総合格闘技が流行るようになれば、ボクシングが廃れるのではないかという懸念があるのだろう。プロボクサーもボクシング統括団体関係者も一般に総合格闘技に対する見解は辛辣である。アメリカで格闘技の興行を行う際には州毎にあるアスレチック・コミッションの認可を得なければならないのだが、昔からボクシングがこれを牛耳ってきているためか、ボクシングより過激なルールを採用している総合格闘技に対しては何かと要求が厳しく、色々と苦労させられてきた。その点、グラウンドにおける馬乗りパウンドの許可に関しては後発ながらも、猪木の格闘技世界一決定戦、UWF、修斗、K-1により下地が整備されていた為か総合格闘技がすんなり大衆にも受け入れられた日本とは対照的である。 話をマケインに戻す。マケインは、総合格闘技は野蛮な「human cockfighting(人間闘鶏)」であるとして、その禁止運動の先陣を切っている。 A decade ago, Sen. John McCain (R-Ariz.) and other legislative strongmen had choked the Ultimate Fighting Championship (UFC) into near-submission. Nearly 40 states banned mixed martial arts events. The cable industry, over which McCain exercised considerable influence as the chairman of the Senate Commerce Committee, took note too. In 1997 TCI and Time Warner stopped carrying UFC pay-per-view events on their systems. Semaphore Entertainment Group, the company that produced UFC, nearly went bankrupt. ("Bleeding into the mainstream: how John McCain popularized human cockfighting," Reason, October, 2007) おかげで1990年代後半には40近くもの州で総合格闘技の 興行は禁止され、UFCのケーブルテレビ放送(PPV)も打ち切られてしまった。その後、UFCは何とか人気を取り戻し、現在ではメジャーケーブル局で人気リアリティ番組(The Ultimate Fighter)を持つまでになっているが、マケインは未だにアメリカの総合格闘技ファンの間では蛇蝎のごとく嫌われている。 Republicans or democrats, American MMA athletes and fans already has a candidate that won’t be voted for president. Candidate on next election, the republican John McCain fought for a long time against MMA at USA. While MMA was growing at United States and all over the world, John did whatever he could to prohibit events like UFC. For one moment, the UFC had to be transferred to Alabama by plane, with octagon and everything, to be done. John McCain will have to face some “strong” opponents at presidential run. ("John McCain, candidate against MMA," tatame.com, February 18, 2008) 日本としては伝統的に親中の民主党よりも共和党に政権を維持してもらいたいところなのだろうが、総合格闘技ファンにとってはマケインに大統領になられると何かと困ったことが起こるやも知れない。 Tuesday, February 19, 2008
"Benevolent Assimilation" 少数民族が存在するので、日本国を単一民族国家と呼ぶのは厳密には正しくない。それ以前の問題として、交通が発達し、国家間を容易に行き来できるようになった現在、純粋な意味での単一民族国家は存在しえない。 なお「単一民族国家思想」への代表的な批判者としては、小熊英二が挙げられる。 などとアホウなことが書かれたまま編集保護になっている。先日のエントリで見たように、単一民族国家発言で問題とされているのは、単にアイヌ民族が存在することを知らなかったという無知あるいは事実誤認ではない。問題なのは、アイヌの存在を知っていながらも、その土着民族としての固有のアイデンティティを認めていないと受け取られたから、それがかつての皇民化教育による強制同化政策の延長にあると捉えられたからである。(小熊もまさか「アイヌが存在するから単一民族国家論は誤りだ」などという間の抜けた指摘をするためだけに450頁にも渡る大著を著したわけではあるまい。) しかし、単一民族国家論を民族的自主性の軽視・否定や強制同化政策に関連づける批判についても、少々疑問な点がある。この関連を検証する前に、また単一民族論の定義を改めて見てみよう。今回は国語辞典ではなく小熊英二著『単一民族神話の起源』を引く: 単一民族神話と呼ばれるものには、二つの側面がある。一つは、「日本国家は同一の言語・文化をもつ日本民族のみから成立している」という、国家の現状認識である。そしてもう一つは、「日本列島には太古から、単一純粋な血統をもつ日本民族だけが生活してきた」という、民族の歴史認識である。もちろん両者は厳密にはわけられるものではなく、単一民族神話を唱える側も批判する側も、両者を混在させて論じているといってよいだろう。 つまり、小熊によれば、単一民族神話における「単一」には:
という二重の意味があるということである。この定義をふまえて小熊は、20世紀初頭の日本の拡張主義とその一環として行われた強制同化政策を支えたのは単一民族論ではなくむしろ混合民族論であったと指摘する。日鮮同祖論などがその最たる例で、要は、アジアの諸民族は皆同じ祖先を持つ兄弟であり、それゆえ欧米の帝国主義に対抗する為、天皇陛下のもと一致団結して巨大帝国を築くべきであるとされた。大日本帝国を構成する大和民族も朝鮮民族も支那民族も全て血縁であるから同じ「日本人」ではあるが、少々の差異は存在する故、それを矯正するために同化政策が施されたという。一方、戦中・戦前の単一民族論は、むしろ日本民族の純血の維持を唱えたため、同化の逆の隔離政策(優生学)、拡張の逆の孤立政策を支持していた。 単一民族論が以上のように定義されるなら、今日アイヌ他の活動家達が日本の政治家の「単一民族国家」発言を強制同化政策と関連づけて批判しているのは、誤りということになる。 単一民族論は、戦争に負けて多民族帝国が崩壊し、異民族人口が国内から消え去った後の日本で興隆した思想であると小熊は言う。その一例として三島由紀夫の「文化防衛論」を挙げている: 三島由紀夫の「文化防衛論」は、保守単一民族論の典型の一つだった。彼は津田ち和辻の文化共同体論や象徴天皇制論を引用して、「日本は世界にも希な単一民族単一言語の国であり、言語と文化伝統を享有するわが民族は、太古から政治的統一をなしとげており、われわれの文化の連続性は、民族と国との非分離にかかっている」と主張した。三島によれば、「敗戦のよって現有領土に押しこめられた日本は、国内に於ける異民族問題をほとんど持たなく」なり、「在日朝鮮人問題は、国際問題でありリヒュジー(難民)の問題であっても、日本国民内部の問題ではありえない」(358頁) 戦後の単一民族論における「単一民族国家」とは、同化政策の果ての、度重なる雑婚の産物としての単一民族ではなく、単に日本が戦争に負けて外地と異民族人口を殆ど失ったことによりもたらされた状態(残ったのは日本民族と日本列島だけ)でしかない。そして、領土拡張主義を正当化する為にアジア諸国の土着民族を血縁と見なし帝国に組み込む必要が最早無くなったため、日本民族は純血(単一の起源)でも良いことになった。こうした文脈で中曽根や鈴木らが「単一民族」発言をしていたのならば、混合民族論との関わりが深い強制同化政策などは念頭に無かったことになる…彼らの発言にしっかりとした思想的裏付けがあったのかどうかは不明ではあるが。(続く) Labels: 哲学 Monday, February 18, 2008
ヤス 単一民族論:一つの国が単一の民族によって構成されているという主張を含む言説。多くは事実であるよりも、神話やイデオロギーとして、政治的に用いられる。(広辞苑第五版) 「単一民族論」という言葉が広辞苑に登場するのは1991年出版の第四版からである。1986年の中曽根康弘首相の単一民族国家発言をふまえ、これが「排外的な政治イデオロギー」として取り上げられた(小熊英二『<日本人>の境界』539頁)。中曽根以降も色々な政治家が同様の発言をしてその度に問題になっているが、まずは最初の中曽根発言がどういったものだったのか見てみよう: 中曽根首相の発言内容は、「日本はこれだけ高学歴社会になって、相当インテリジェントなソサエティーになってきておる。アメリカでは黒人とかプエルトリコとかメキシカンとか、そういうのが相当おって平均的に見たら(知的水準は)非常にまだ低い」というもの。これが、米国の黒人やプエルトリコ人をはじめとする大多数の米国人の反発を招き、人種差別発言として大問題となった。 まず最初にアメリカ系アフリカ人に関して差別的発言をしたと批判され、その弁解の際にヤブヘビ的に口にしてしまったものらしい。文脈からして悪く捉えられてしまうのも当然ではあろうが、中曽根が実際に差別的意図を持って発言していたかどうかはとりあえず措くとする。仮に「日本は単一民族国家である」という発言が「アイヌ民族の存在を無視する」という排外主義を主張するものであったなら、それは一体どういう解釈によるものであろうか? この発言は幾つかの解釈が可能である:
1番目はナチス並のストレートな人種差別主義の表明である。批判者も、まさか戦後日本の首相がそこまで酷い排外主義思想の持ち主であるとは考えていないだろう。2番目のような意見は琉球民族(沖縄県民)に関して暫し聞かれる。アイヌに関しても、アイヌを縄文人と同じ原日本人に規定して斯様な発言がなされる場合がある。3番目は単なるうっかりミス、または事実誤認である。中曽根に関しては東京帝国大学法学部を卒業している人間であり、まさかアイヌの存在自体を知らなかったわけはなく、事実誤認の可能性は無いだろう。いずれにしろ、少数民族に対し無神経な態度であることを露呈してしまったわけであるから、それなりの問題ではある。そうした無神経な態度が少数民族のアイデンティティを尊重しない政策実施に無意識のうちに繋がる恐れがあるのは否めない。が、「排外主義」「差別主義」などと糾弾されるほど深刻な問題ではあるまい。 いずれにしろ、「アイヌ民族の存在を無視する」だけでは今ひとつ問題点が正確に掴めない。他の政治家の単一民族国家発言についてはどうだろうか: 自民党の鈴木宗男衆院議員(比例道ブロック)が二日、東京都内で行った講演で「私は(日本は)一国家一言語一民族といっていいと思う。北海道にはアイヌ民族というのがおりまして、嫌がる人もおりますけれど、今はまったく同化されている」と発言。また、平沼赳夫経済産業相も同日、札幌市内のホテルで開いた自民党の中川義雄参院議員のセミナーで「日本は単一民族」と発言していたことが、三日明らかになった…鈴木氏は三日、北海道新聞の取材に対して「一般論として言った。一国家一言語一民族というと嫌がる人もいるから、それを断って言った。差別的意図はなかった」と述べた。一方、平沼氏はセミナーでの講演で日本の経済成長について触れた中で「小さな国土に一億一千六百万人のレベルの高い単一民族でぴちっと詰まっている。この人的資源があったからこそ、あの大東亜戦争に負けて原爆まで落とされて、いまだにアメリカについで世界第二位の経済大国の座を守っている」などと述べた。(北海道新聞2001年7月3日) つまり単一民族国家発言は、少数民族の民族的アイデンティティを否定・軽視するものであるため、および戦前・戦中に行った強制同化政策による民族的アイデンティティの剥奪に繋がる発想であるため、問題にされている。これは上述の2に相当する。 しかし、同化政策自体は必ずしも差別ではないし悪でもない。「民族の自主性を尊重せよ」という多文化主義(マルチカルチュラリズム)の観点からすれば無論望ましいものではないが、同化させるということは仲間として受け入れるということであり、排外主義や差別隔離政策の対極である。この限りでは、政治理念の違いであり、「虚妄」や「嘘」などではない。 ただし同化でも、全ての民族が平等に「人種のるつぼ」(melting pot)のごとく融合し新たな単一民族へと生まれ変わるのであれば良いが、戦中・戦前の皇民化政策ように少数民族の文化・伝統を一方的に奪い、多数派民族のそれを押し付け「日本人化」させるとなると、やはり問題である。この「日本人化」の場合であっても100%悪意でやっているとは限らないが、今の世の中ではさすがに通らない理屈であろう。アイヌの人びとが怒るのも理解できなくはない。(続く) Labels: 哲学 |
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