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Thursday, January 17, 2008
イマニュエル・カント 道義的責任の概念が意味を成すには、人間個人が責任を取れる自立した理性的存在であるという前提を要する。例えば殺人は悪だが、洪水で人が死んでも自然現象に責任など問いはしないし、クマに人が襲われ殺されても動物に責任など問わない。無論、氾濫する川や人食いグマは、犯罪者認定などされなくとも害悪を起すという純粋に物理的、因果的な原因として排除(治水、射殺)されることにはなるが、その対処は人間の犯罪者に対するそれとは性格が本質的に異なる。被害者側においても、たとえば食肉用に牛を屠殺したところで罪など問われないが、被害者が人間であれば殺人罪になる。こうして、道徳的価値観の本質的基準として人間個人が措定されることになる。 一見筋の通った明白な理屈だが、責任原則を適用するには曖昧で難しいケースが多々ある。例えば加害者が知的障害者であったり未成年であると責任が減じられたりする。被害者側でも、植物人間を安楽死させたり、胎児を妊娠中絶する場合などには、通常の殺人ほど重い罪は問われない。どこまでが「人間」でどこからがそうではないか、の境界は曖昧である。 加害者側が複数だと責任は分散される。1人で2人以上殺せば死刑は確実だが、複数人で2人殺したなら、たいがい犯人それぞれが懲役刑を受けるだけですむ。では、加害者が100人、1,000人と増えていったらどうなるのか? 国家による犯罪は、民主主義国であれば理論上、参政権を持つ主権者たる国民全てに責任があることになる。しかし、1人の死に対する責任を数千万人で割ったら微々たるものだ。懲役刑にしたら一人当たりコンマ数秒だろう。賠償については、加害者側の一人当たりの支出は微々たるものになろうとも被害者が受け取る額自体は変わらないから問題は無いが、応報的懲罰についてはほとんど意味をなさなくなってしまう。 昔のマルクス主義者がよく使った例に貧困と犯罪の関係がある。例えばある人Bが貧困ゆえに窃盗の罪を犯したとする。そして、その貧困はB個人の怠惰によるものではなく、Bの住む社会の不当な差別的、搾取的構造に起因するものであったとする。この犯罪について、B個人に責任を問い、Bを懲罰するべきか? はたまた社会の差別的、搾取的構造が原因であるとし、社会改革を促すべきか? 無論、全てB個人の責任にしてしまったほうが楽であるし、その社会において恵まれた地位にある人間にしたら現状を維持したいだろうから、斯様な犯罪の責任はすべて個人に押しつけようとするだろう。こうして責任概念が都合の良い言い訳になる。系譜学者に言わせると責任概念などは奴隷道徳の賜物ということになる。 似た概念に功績(desert)がある。ある個人Cが一生懸命働いたなら、Cはその努力に見合うだけの報酬を得るべきだ。一方、自堕落で働かない個人Dには、自業自得だから何の報酬も与えられるべきではない。実にアメリカンドリーム的なストレートな理屈で、沢山の人が支持するだろう。しかし、努力して結果を出せるかどうかは、その個人の持って生まれた資質(知能、人格、体力等)および運によるところも大きく、純粋に努力だけで判断できるものではない。生まれ持った資質には格差があり、それは生まれ落ちた時点で決まっているのだから努力のしようもない。Dが低知能、虚弱体質、性格最悪に生まれたことに対してはD個人に「責任」はない。さらには「努力できる才能」もまた持って生まれた資質の一つと見ることが出来る。富の再分配で福祉制度などのために自分の財産が奪われるのが嫌な資産家は、そのようなことを認めるわけにはいかず、富=個人の努力の賜物(個人の「責任」)という個人主義的倫理観に固執することになる。 続き:道義的責任その2(道徳、責任の定義) Labels: 哲学 この記事へのコメント:Subscribe to Post Comments [Atom]
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