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Saturday, January 26, 2008
伊東先生 この出来事について、後の場面で谷原章介演じる大学の准教授とその生徒が、1+1の答えはブール代数では1だし、二進数では10になる等々と指摘する。そして、「1+1=2」とは決まっていない、その答えには「もっと可能性がある、可能性は好奇心があるだけ生まれて行く」「1+1は2としか言えない君、2以外の可能性を全て消して、子供の純粋な好奇心を無視することしか出来ない君は、面白くない人間だ」などと伊藤に講釈をたれる。 1+1の答えに2以外の可能性があるというのは結構なことだが、その前に1+1=2とされることの重要性を子供達にきちっと教えてやる必要があるのではなかろうか? 2以外の答えの場合同様、単なる決まり事だ、数学の公理系における定義だ、ではロクな答えになっていない。それでは「じゃあ何でそんな定義をしたのか?」と子供にさらに質問されるだけだ。 「どうして1+1は2なの?」という子供の問いに対しミカンの例で答えた伊藤の対応は半分正しい。それは数学の歴史を紐解けばすぐに分かる。人類史において、数学は物々交換の経済や農地開墾のための測量の必要から生まれた。ミカン1個と1個をあわせれば2個。2個を相手にやれば、2個に相当する物品を交換で貰う。勝手にミカンを2つに割って3個だと言い張り3個分の料金や物品を要求しても、そんな詐欺じみた要求が通るわけは無い。この取引において1個の単位はミカンであってミカン粒ではないのだから、勝手に単位を変えて数字を変えることはできない。 そうした実用的な学問としてまず数学が生まれた。それが後に現実の事物とは直接対応しない、自立した抽象概念の学問体系として発展していったことで、ブール代数やリーマン幾何学などが生まれて行ったのだろう。そして、それがまた回り回ってきてコンピューターなど現実社会の技術に応用されることになる。しかし、全ての始まりは地に足着いた1+1=2の数学である。 数字や言語という抽象概念を使った思考は人間の専売特許である。他の動物も、例えば餌が「たくさん」あるとか天敵が「少ない」場所といった認識はできるだろうが、そうした原始的な論理的思考能力が人間の言語力、数学力へと進化するのには膨大な年月を要している。ミカン2個を「2」という抽象概念で表現できることの意義は大きい。 Labels: 哲学 この記事へのコメント:
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