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Wednesday, January 30, 2008
某掲示板で見つけた画像 日本語では「韓国」は国名で、民族名は「朝鮮人」だが、当の韓国では「韓」の字を使った民族名もあるようだ。韓国の新聞サイトや翻訳掲示板などを見ていると分かるが、「韓人」「韓族」などと書くらしい。まぁ妥当な表記法ではある。韓国において「朝鮮」という語は敵対する北朝鮮あるいは李氏朝鮮を意味し、現在の韓国人をさす言葉として使われると違和感を感じるらしい(それでか日本人を「江戸人」などと言い返してるのが掲示板にもいた)。ちなみに朝鮮半島は「韓半島」となる。 では「韓系日本人」なる語は存在するのだろうか? Google検索すると47ほどヒットする。機械翻訳した「한계 일본인」では4件のみ。「韓系」は沢山ヒットするが、その全てが朝鮮民族系を意味するのかは不明。 日本ではもともと「(在日)朝鮮人」が一般的な呼称であったのが、戦後、朝鮮半島が南北に分断され韓国と北朝鮮という二つの反目する国家に統治されるようになったため、政治的配慮から「韓国系日本人」「在日韓国人」という語が生まれたのであろう。最近では「朝鮮」「韓国」共に使わず「在日コリアン」という呼称を使う場合もあるらしい。 それと同じ流れで「朝鮮語」も「ハングル語」などと表記したりする。しかし、これも「ハングル」というのは日本語の仮名に相当する文字の名前で言語名ではないので、妙な呼称である(日本語で言うなら「仮名語」と言うようなもの)。 「中国系日本人」についても同じようなことが言える。この場合、戦中・戦前は「支那人」と呼ばれていて、中国での中国人の民族名は「華人」らしい。では「中国系日本人」は「中華系日本人」とするほうが正確なのだろうか? Labels: 哲学 Monday, January 28, 2008
菊の御紋のパスポート 広辞苑 日本人=日本国民というのは明白な定義で、これについては曖昧な部分など無い。しかし日本人は、大辞林におけるように、単に「日本の国籍をもつ者」に限定されるものではない。例えば「日系アメリカ人」などの語においては「日本人」(「Japanese-American」の「Japanese」)をアメリカ国内における少数民族(英:minority ethnic)の一つとしてとらえており、日系アメリカ人は当然日本国籍など所持していない。「アメリカ人」という言葉の場合はほぼアメリカ合衆国民に限定され、「アメリカ民族」なる概念は存在しないので混乱の余地は無いが、「日本人」の場合は少なくとも国民としての日本人と民族としての日本人の2つの意味を有し、そう話は単純ではない。 では国民以外の日本人定義には如何なるものがあるのか? 広辞苑には「日本国に国籍を有する人」とは別に「人類学的にはモンゴロイドの一。皮膚は黄色、虹彩は黒褐色、毛髪は黒色で直毛。言語は日本語。」とある。しかし、黄色い皮膚云々は東アジアの諸民族の多くにも共通する生物学的な特徴であり、日本人固有のものではない。俗に「日本人」と呼ばれる集団に共通する生物学的特徴としてこれらを挙げる事はできても、それだけをもって独立した「日本人」という人種的分類を成す事はない。人種的分類としてはモンゴロイドだけで済む。また、「日本人」のそうした遺伝的特徴なり形態的特徴を調査するには、まずは調査対象となる「日本人」をサンプリングせねばならないわけで、その際の選定基準はそもそも何だったのという疑問が残る(「日本人」定義があらかじめ無ければ「日本人の特徴」など調べようが無い)。後半の「言語は日本語」も、日本語を喋れば日本人になる、というのもおかしな話である。ケント・デリカットは流暢な日本語を話すが別に日本人ではない。 次に、国語辞典より少し詳しい百科事典を見てみよう: 世界大百科事典(平凡社) 世界大百科事典もマイペディアも共に、俗に「日本人」と呼ばれる集団が持つ生物学的特徴をだらだらと述べているだけで、上述の通りこれらの特徴が日本人に固有のものでない以上、これらをもって日本人の定義とすることはできない。エンカルタ日本語版では「日本人をほかのモンゴロイドと明確にわける身体的特徴をあげることは不可能であり、モンゴロイド人種内の1グループとして『日本人種』というたしかな集団が存在するわけではない」とはっきりと書いている。Encyclopædia Britannicaは「Japan」の項目内に「Japanese ethnicity」の節を設けているが、これが日本の人口において多数派を占め「アジア地域人種」(Asiatic geographic race)に属するとするとしている。後半は平凡社百科事典と同じく具体的な定義にはなっていない。前半の「多数派」も、多数派認定されるには予め独立した分類として日本人定義が確立していねばならず、「多数派」のみでは日本人定義たりえない。Columbia Encyclopedia、エンカルタ英語版もEncyclopædia Britannicaと同様である。 エンカルタ日本語版の第三の定義が興味深い:「日本民族という意味で、文化を基準に人間を分類したときのグループである。また、文化のなかで言語はとくに重要なので、日本民族は日本語を母語としてもちいる人々とほぼ考えてよい。」日本人=日本に固有の文化を共有する集団であるところの日本民族と言うわけだ。「文化のなかで言語はとくに重要」というのは前述の広辞苑の定義「言語は日本語」とも合致する。そこで、「民族」の定義をふたたび国語辞典で引いてみる事にする。 広辞苑 同じ文化を共有し、その共有に長い歴史があり、かつその集団において同属意識がある。なるほどもっともな定義だ。大辞林の定義にある「共通の出自」つまり共通の祖先を持つという事は、平凡社百科事典で延々と述べられている人種的(生物学的・身体的)特徴にも繋がる。「同属意識」も、例えばアメリカの国勢調査等においては民族的出自の項目はほぼ自己申告であり、言わば調査対象が「同属意識」を持っていることが唯一の基準になっている。 であれば、「日本人」の定義として最初から「日本民族:日本固有の伝統文化(特に言語)、出自(先祖、遺伝子)、歴史を共有し、同族意識を持つ集団」とでも国語辞典に載せておけば良いものを、何故かそういう簡潔で包括的な定義を一カ所に見つけることは難しい。広辞苑には「大和民族」という語も載っているが、その定義は「日本民族に同じ。→日本人。」のみ。上述の広辞苑の2番目の日本人定義「人類学的にはモンゴロイドの…」を指すのであろうが、これが適切な定義ではないことは上で示した通り。 なんとも不思議な話である。日本民族定義の曖昧さの原因については、また後に改めて考えてみたい。 Labels: 哲学 Saturday, January 26, 2008
伊東先生 この出来事について、後の場面で谷原章介演じる大学の准教授とその生徒が、1+1の答えはブール代数では1だし、二進数では10になる等々と指摘する。そして、「1+1=2」とは決まっていない、その答えには「もっと可能性がある、可能性は好奇心があるだけ生まれて行く」「1+1は2としか言えない君、2以外の可能性を全て消して、子供の純粋な好奇心を無視することしか出来ない君は、面白くない人間だ」などと伊藤に講釈をたれる。 1+1の答えに2以外の可能性があるというのは結構なことだが、その前に1+1=2とされることの重要性を子供達にきちっと教えてやる必要があるのではなかろうか? 2以外の答えの場合同様、単なる決まり事だ、数学の公理系における定義だ、ではロクな答えになっていない。それでは「じゃあ何でそんな定義をしたのか?」と子供にさらに質問されるだけだ。 「どうして1+1は2なの?」という子供の問いに対しミカンの例で答えた伊藤の対応は半分正しい。それは数学の歴史を紐解けばすぐに分かる。人類史において、数学は物々交換の経済や農地開墾のための測量の必要から生まれた。ミカン1個と1個をあわせれば2個。2個を相手にやれば、2個に相当する物品を交換で貰う。勝手にミカンを2つに割って3個だと言い張り3個分の料金や物品を要求しても、そんな詐欺じみた要求が通るわけは無い。この取引において1個の単位はミカンであってミカン粒ではないのだから、勝手に単位を変えて数字を変えることはできない。 そうした実用的な学問としてまず数学が生まれた。それが後に現実の事物とは直接対応しない、自立した抽象概念の学問体系として発展していったことで、ブール代数やリーマン幾何学などが生まれて行ったのだろう。そして、それがまた回り回ってきてコンピューターなど現実社会の技術に応用されることになる。しかし、全ての始まりは地に足着いた1+1=2の数学である。 数字や言語という抽象概念を使った思考は人間の専売特許である。他の動物も、例えば餌が「たくさん」あるとか天敵が「少ない」場所といった認識はできるだろうが、そうした原始的な論理的思考能力が人間の言語力、数学力へと進化するのには膨大な年月を要している。ミカン2個を「2」という抽象概念で表現できることの意義は大きい。 Labels: 哲学 Friday, January 25, 2008
ベンサムのミイラ 哲学的問題の多くは言語に関する誤解に起因しているとし、国語辞典などを使用して日常言語における問題概念の用例を検証する方法論を提唱したジョン・L・オースティンにならって、まずは国語辞典で「道徳」他の定義を引いてみる: 広辞苑要は道徳というのは、行為の善悪を規定する基準、規範のことである。道徳は、日本語においては一般に、政治的権力の裏付けを持ち物理的拘束力がある法律に対し、人が個人として自ら行動を律する際に参照する規範のことを言うが、「善悪を規定する規範」ということでは道徳は法律を包摂する。伝統、風習に基づく価値観、宗教、法律(公衆道徳)など、道徳的規範にも色々あるが、善悪を学問的に深く探求し、体系を構築すれば道徳的規範は道徳哲学となる。 厳密には道徳哲学には二種類ある。一つは研究者自身も正しいと信じる規範を提唱する規範倫理学(英:normative ethics)。これは一般的な道徳規範の延長と言える。もう一つは道徳的規範を、あたかも人類学者が異民族の風習をフィールドワークで調査するような形で、客観的に研究するメタ倫理学(英:metaethics)である。例えば、快楽を増幅する行為が善であるとし、最大多数の最大幸福を推奨する功利主義は規範倫理学の学説である。ある行動が正しいという道徳判断はその判断者のその行動に対する支持の感情を表すものである、とする情緒説(英:emotivism)はメタ倫理学の学説である。(もはや哲学というより心理学に近い。)後者が道徳的判断・言明を分析するだけに留まるのに対し、前者は分析に加えて望ましい道徳規範を提唱している。 では「責任」の概念の方はどうか。「道義的責任」とあるからには、責任概念を用いる道徳的規範があるということだ。先述の、イギリスの哲学者ベンサム、ミルらが提唱した功利主義が快楽概念によって行為の善悪を判断するように、責任概念を道徳的価値判断の基礎におく道徳哲学がある。これを義務論(英:deontology)と呼ぶ(日本語の哲学用語では「責任」ではなくて「義務」という言葉を使う)。ドイツの哲学者カントらが主な提唱者。功利主義が行為の結果がもたらす快楽の量によって善悪を規定するのに対し(結果主義、英:consequentialism)、義務論においては、結果がどうあれ、善行はその行動自体が善であるが故に行われなければならないとする。 カントはまた懲罰における応報刑論の主要な論者の一人でもある。 広辞苑 一方功利主義では、犯罪者を犯罪を犯したが故に罰するのではなく、さらなる犯罪を抑止することを目的とした懲罰を提唱する(目的刑主義)。 Labels: 哲学 Tuesday, January 22, 2008
フォン・シュトゥック画『シシュポス』 で、プロレタリア文学とは:「プロレタリアの生活に根ざし、その階級的自覚に基づいて、現実を階級的立場から描く文学。19世紀中葉から1930年代中頃にかけて行われ、日本では大正末期から昭和初頭に大きな勢力に育ったが、弾圧によって1934年以後潰滅」(広辞苑)。「ブルジョア文学に対して、労働者階級の自覚と要求、思想と感情に根ざした文学、および組織的運動としての社会主義的・共産主義的革命文学の総体をいう。」(大辞林第二版) 小林多喜二の『蟹工船』などがその代表。漫画では、プロレタリア文学とはまたちょっと違うが、非人出身の忍者カムイの活躍を描くカムイ伝などがマルクス主義的な唯物史観で描かれた作品として有名。厳密には1920年代から30年代にかけて書かれた共産主義運動を主眼に書かれた作品に限定されるらしいが、まぁ搾取の厳しい資本主義社会の下層で貧困に喘いでる労働者の生を生々しく描いて、階級闘争的な蜂起の可能性を臭わせればプロレタリア文学っぽくなる。 カイジに話を戻す。作品名と同名の主人公カイジはうだつの上がらないフリーター。すったもんだの末に地下「強制労働施設」へ送り込まれ、莫大な借金を返すためにそこで15年の労働を課せられるはめになる(第14巻)。労働環境は劣悪で、昔のタコ部屋そのもの。敵役である兵藤和尊は消費者金融グループ「帝愛」財閥の総帥で資本主義の権化のような人物。このどん底から天才的なギャンブルの才覚を発揮してカイジが這い上がって行く様は、まさに革命の英雄然としている。その過程で自分と似た境遇にある社会的落伍者達を仲間にしていくのだが、カイジは自分が裏切られることはあっても自分からは決して弱者を切り捨てたりしない。そして、ギャンブル勝負で勝った分け前は愚直なまでに仲間と完全平等配分。作者の福本伸行は共産主義を公然と標榜してるわけでも、またそうであることを示唆するような発言もしていないのだけれども、このカイジのこだわりは興味深い。 その一方で、敵役である兵藤和尊や利根川幸雄(帝愛幹部)の発言には、今の日本社会の現実を鋭く喝破し、甘えたきった日本の若者を諭すような名言が多く、人気も高かったりする。兵藤らの発言が真実であるような現状自体は憂うべきものではあるのかも知れないが、彼らは一分の「理」も無い、絶対的に疎まれるべき悪として描かれているわけではない。彼らが「金は命より重い…!」現実社会において努力の末に勝者として君臨している様は痛快でもあり、少なくともカイジ以外の自助努力もせず負け組人生まっしぐらな連中と比べればずっと立派で魅力的である。ピカレスクロマン『アカギ』を描いてる作者としても、兵藤ら悪役キャラを嫌いではないだろう。 カイジは人生のどん底から英雄的な復活劇を見せるのだけれども、一度勝ち上がるとまた昔の自堕落なダメ人間生活に戻り、借金を重ね、どん底に逆戻りしてしまう。このパターンが永遠に繰り返されるなら、その様はまるで山頂へ岩を押し上げ続けるシーシュポスにも似ており、これまた今では死語となって久しい実存文学を想起させたりする。まぁ商業漫画的にはいずれ兵藤と再び対決し、何らかの決着を見て終わるのだろうとは思うけれども、これまでのところは、主人公カイジがどんどん勝ち上がって帝愛財閥をぶっ潰し、革命起して社会的弱者に優しい平等社会を実現しよう、みたいな流れにはなっていない(なったらなったで驚くが)。 もしシーシュポスのごとく、カイジが無為であると分かっていてもその不条理を受け入れ、しかしそれに対し永久に反抗し続けるのなら、裏切られると分かっていても仲間達を信頼し続け愚直なまでに平等分配にこだわり続けるなら、その動機はどんなものになるのだろうか? 同作者による別作品『天』の登場人物アカギもまた麻雀・ギャンブルの天才で、彼も同様に「成功」を「積み」重ねて行かない。連戦連勝で大金を稼ぎ、自身も兵藤や鷲津のような権力者になり一大財閥、帝国を築こうとはしない。アカギの場合、その理由は「成功が成功し続ける人生を要求してくる」からであるという。成功して組織を構えて、多くの人を従え、その長になれば、その役割に縛られ保守的になり、結果自由を奪われていく。それを嫌ってアカギは意図的に成功を積み重ねず、「崩す」ことにしている。しかし「勝つことによって人の命は輝く光を放つ」ゆえ、勝負は止めない。勝負のためだけに勝負を続けて行くことになる。まさに自分がsignatureで使っている一節「The absurd is his extreme tension, which he maintains constantly by solitary effort, for he knows that in that consciousness and in that day-to-day revolt he gives proof of his only truth, which is defiance.」そのものだ。カイジの場合はそういう明確な意思があってダメ人間モードに何度も陥っているわけではないが、そこにはある種の福本作品に共通する世界観が現れているように思う。 同じような印象を受けた人が他にもいないかと思い、google検索で調べてみたところ、カイジではなく『最強伝説黒沢』について「プロレタリア漫画」と書いているブログが一つあった。自分的には、『黒沢』のほうは主人公である労務者のおっさんの姿を面白おかしく描いていて、主人公自身はその状況に強く抗ったり喘いでいたりするわけでもないので、ちょっと違うように思う。 Labels: その他 Monday, January 21, 2008
Flamin' Hot Cheetos まず、色が毒々しく、いかにも健康に悪そうな人工着色料的な赤さをしている。袋から直に食べているとその色が手にベットリと付く(ほんと層になるくらい)。 味も激辛だから、お腹が弱い人が食べれば下痢する公算高し。で、トイレに行くとチートスのおかげで便までも真っ赤な尋常じゃない色に染め上げられていて、便器の中はまさに地獄絵図。予備知識無くその様を最初に見れば、大腸ガンか何かとんでもない病気にでも突然かかったんじゃないかと心配になること受け合い。 ベースのチートスも、コーンを油で揚げてチーズ加えた菓子だから、コレステロールの塊のようなもの。どう考えても体によろしくない。 そして何より病み付きになるほどの「うまみ」がある(辛いだけなじゃい)。この点が日本のカラムーチョやハバネロなどとは比較にならない。それで、健康に悪そうと思いながらもやめられないのである。 米フィラデルフィアにあるモネール化学感覚センター(Monell Chemical Senses Center)の食品嗜好専門科(food preference expert)であるマーシー・ペルチャット氏(Marcy Pelchat)によると、このチートスを食べると三叉神経が刺激され、それがもたらす不快感を押さえるためにエドルフィンが分泌され、ハイになってしまうとか何とか。まるで非合法ドラッグのような言い様。 日本では販売していないので、国内で入手するにはアメリカから直接取り寄せるか、アメリカの食品を扱ってる在日米国人向けスーパーなどで購入するしかない。アメリカなら普通のコンビニでも売ってる(ただ、レギュラーのチートスと比べると置いてない店も多い)。 追記:ドリトス版もあって、こっちも負けず劣らず美味かった。 関連記事(外部):
Labels: 時事 Friday, January 18, 2008
Mathだけにマス教授 登場するのはワシントン大学大気科学部のクリフ・マス(Cliff Mass)教授。ゆとり教育に嘆いている日本の大学教授と同じようなことを、このマス教授も嘆いている。それで先の記事の題名にも「ゆとり教育」と入れたのだけれど、マス教授が批判しているのは主にワシントン州における数学カリキュラムについて(アメリカには日本の文科省に当たる省庁は無く、教育行政は州ごとに行われている)。これが「reform math」「constrictivist math」あるいは「fuzzy math」(ファジーな数学)などと呼ばれている。 マス教授はワシントン大学で25年間、天気予報や大気の数値的シミュレーションの研究をしていて、学部生向けに大気科学の入門コースも教えている。10年くらい前から、ワシントン大学の新入生における数学能力が著しく低下してきていることにマス教授と大学の同僚達が気づきはじめた。今の学生は、80年代の学生なら苦もなくこなしていた単純な代数や分数の問題を解くのも困難になりだしている。結果、教授の大気科学コースはレベルを落とさざるをえなくなってしまう。 学力低下の客観的証拠の一つとして、ワシントン大学で1990年から1999年の間に行われた前・微積分能力判定試験(pre-calculus assessment test)において、平均点がどんどん落ちて来ていることが挙げられる。あまりに点数が悪くなりすぎてしまったので、1999年からはより簡単なテストに変えるはめに。 マス教授が大気科学入門コースをとっている生徒に中学レベルの数学テストを課してみたところ:
ワシントン州に限らず全米で問題になっている。これはニュージャージー州の小学校3年生用のreform math問題:「クローゼットにペーパークリップの入った箱が25箱あります。それぞれの箱にはクリップが100個入っています。私は1つの箱からクリップを50個取り出しました。クローゼットには何個クリップが残っているでしょう?」「貴方がこの問題をどうやって解いたか示してください。貴方の考えを言葉でも説明してください。例えば、貴方はどのようにして問題をその方法で解けると分かりましたか?」(New York Times, June 14, 2007)「25*100-50=2,450」と数式を書くだけでは駄目らしい。 このNCTM要領に沿った教科書が1990年代よりアメリカ全土で採用されはじめる。ワシントン州他で広く使用されているNCTM準拠の代表的教科書:TERC Investigation、Pearson Connected Math Program (CMP)、McDougal-Littell Integrated Math、Interactive Math Program (IMP)、Everyday Math。この全ての教科書がNCMT要領の欠点を共有している。代数・幾何に関する多くのトピックが欠けており、生徒は分数、等式の操作、三角関数、基本的な計算法を習得できない。ワシントン州などではNCTM要領を反映するようにカリキュラムも修正された。 これが教授自身の息子の数学教育にも悪影響を与えることになってしまう。教授の上の子が中学、高校で使った数学教科書はMcDougal-Littell Integrated Math。この教科書は、様々なトピックを狂ったように行ったり来たりするため、生徒が一つも満足に習得できない。内容は一貫性を欠き、論理的な発展学習が不可能。その内容はあまりに酷く、教授は心配になって夜には子供といっしょに勉強し、家庭教師を雇い、公文式に通わせたという。 下の子は高校でInteractive Math Program (IMP)を使用。この教科書の中には数式がほとんど出てこない。生徒が自分で数式を発見するようになっていて、その中身は「観覧車から飛び降りてみる」などといったテーマに沿って書かれている。重要な数学的原理をスルーしていて、息子はこれではやりがいが無いと感じ、もっと学びたい、本当の数学を学びたいと嘆いたという。 National Research CouncilがNCTMプログラムの効果を検証するために委員会を設立。K-12 (幼稚園から高3年まで)の数学教育の質を査定するため、19のNSF(National Science Foundation)主導のNCTMプログラムについて147の研究を行った。結果は、同カリキュラムの有効性を示すデータはいっさい無し。 William Hook、Wayne Bishop、John HookがEducational Studies in Matics誌で発表した研究によると、カリフォルニア州がreform mathから数学テスト上位国のカリキュラムを反映したものに変えたところ、生徒の成績が格段に向上したという。学力向上は特に社会的に恵まれない生徒(less advantaged student、貧困層の子弟)の間で顕著であったという。 フォーダム財団(Fordham Foundation)がアメリカ中の数学カリキュラムを調査したところ、ワシントン州はF(落第、不可)ランクだった。 現行のワシントン州の学習指導要領はお粗末に書かれたもので、必要以上に分量が多く、時に数学と何の関係もないことにまで言及している。 ワシントン州における学生の数学力の低下はreform math導入と共に始まっており、これは偶然ではない。 では、どうやってこの惨事(disaster)を解決すべきか?:
さらに詳しい情報はwheresthemath.comを参照とのこと。 Labels: 時事 Thursday, January 17, 2008
イマニュエル・カント 道義的責任の概念が意味を成すには、人間個人が責任を取れる自立した理性的存在であるという前提を要する。例えば殺人は悪だが、洪水で人が死んでも自然現象に責任など問いはしないし、クマに人が襲われ殺されても動物に責任など問わない。無論、氾濫する川や人食いグマは、犯罪者認定などされなくとも害悪を起すという純粋に物理的、因果的な原因として排除(治水、射殺)されることにはなるが、その対処は人間の犯罪者に対するそれとは性格が本質的に異なる。被害者側においても、たとえば食肉用に牛を屠殺したところで罪など問われないが、被害者が人間であれば殺人罪になる。こうして、道徳的価値観の本質的基準として人間個人が措定されることになる。 一見筋の通った明白な理屈だが、責任原則を適用するには曖昧で難しいケースが多々ある。例えば加害者が知的障害者であったり未成年であると責任が減じられたりする。被害者側でも、植物人間を安楽死させたり、胎児を妊娠中絶する場合などには、通常の殺人ほど重い罪は問われない。どこまでが「人間」でどこからがそうではないか、の境界は曖昧である。 加害者側が複数だと責任は分散される。1人で2人以上殺せば死刑は確実だが、複数人で2人殺したなら、たいがい犯人それぞれが懲役刑を受けるだけですむ。では、加害者が100人、1,000人と増えていったらどうなるのか? 国家による犯罪は、民主主義国であれば理論上、参政権を持つ主権者たる国民全てに責任があることになる。しかし、1人の死に対する責任を数千万人で割ったら微々たるものだ。懲役刑にしたら一人当たりコンマ数秒だろう。賠償については、加害者側の一人当たりの支出は微々たるものになろうとも被害者が受け取る額自体は変わらないから問題は無いが、応報的懲罰についてはほとんど意味をなさなくなってしまう。 昔のマルクス主義者がよく使った例に貧困と犯罪の関係がある。例えばある人Bが貧困ゆえに窃盗の罪を犯したとする。そして、その貧困はB個人の怠惰によるものではなく、Bの住む社会の不当な差別的、搾取的構造に起因するものであったとする。この犯罪について、B個人に責任を問い、Bを懲罰するべきか? はたまた社会の差別的、搾取的構造が原因であるとし、社会改革を促すべきか? 無論、全てB個人の責任にしてしまったほうが楽であるし、その社会において恵まれた地位にある人間にしたら現状を維持したいだろうから、斯様な犯罪の責任はすべて個人に押しつけようとするだろう。こうして責任概念が都合の良い言い訳になる。系譜学者に言わせると責任概念などは奴隷道徳の賜物ということになる。 似た概念に功績(desert)がある。ある個人Cが一生懸命働いたなら、Cはその努力に見合うだけの報酬を得るべきだ。一方、自堕落で働かない個人Dには、自業自得だから何の報酬も与えられるべきではない。実にアメリカンドリーム的なストレートな理屈で、沢山の人が支持するだろう。しかし、努力して結果を出せるかどうかは、その個人の持って生まれた資質(知能、人格、体力等)および運によるところも大きく、純粋に努力だけで判断できるものではない。生まれ持った資質には格差があり、それは生まれ落ちた時点で決まっているのだから努力のしようもない。Dが低知能、虚弱体質、性格最悪に生まれたことに対してはD個人に「責任」はない。さらには「努力できる才能」もまた持って生まれた資質の一つと見ることが出来る。富の再分配で福祉制度などのために自分の財産が奪われるのが嫌な資産家は、そのようなことを認めるわけにはいかず、富=個人の努力の賜物(個人の「責任」)という個人主義的倫理観に固執することになる。 続き:道義的責任その2(道徳、責任の定義) Labels: 哲学 Wednesday, January 16, 2008
サダハルンバ谷川 例えば「ブラジリアンキック」だの「ロシアンフック」だのといった流行の用語をよく使用する。そういうキャッチフレーズは素人には認識しやすいが、実際の格闘技の試合はゲームや漫画、プロレスじゃあないのだから、そんなものを何かの必殺技であるかのようにしたり顔で強弁されても間が抜けているようにしか聞こえない。 また、ベルナール・アッカ、ボビー・オロゴン、ジョニー・モートンら話題作りのために素人同然の有名人をリングに上げておいて、あたかもそれ相応の実力(「潜在能力」)があるように語ったりする。自身がK-1の興行側の人間であるから、K-1で推している選手を良く言うこと自体はまぁある程度は理解できる(鬼塚ら協栄関係者が亀田の素行を大目に見るように)が、谷川のそれは度が過ぎる。 プロレスの場合はショー的要素が大きく観客論というものが成立するので、個々の選手の評価も評者の観点によって変わることがある程度許されている。だからターザン山本のような評論家がある選手を評価すれば、仮に他の人々が同選手を低く評価したとしても、ターザン山本という識者の評価として(それを裏付けるターザンのプロレス論とセットで)ある程度尊重される場合が多い。一方、格闘技の場合は第一にスポーツ競技であり、試合解説は客観的な技術論や選手の身体能力にほぼ終止する。プロレスではカリスマ性であるとか魅せる試合をするといったことが第一だが、格闘技ではそうしたことは二次的要素でしかない。弱い格闘技選手はいかに魅力があろうと話題になっていようと格闘技選手としては評価しないのが当然であり、そのような選手を過大に評価すれば単純な事実誤認でしかない。 谷川には特筆すべき格闘技経験が無い。スポーツの試合において、自身がその競技の経験者でないならテレビで解説など普通しないだろう。巨人戦をナベツネが解説するようなものだ。谷川の発言の薄さは、自身の主張を裏付ける格闘技経験の欠如と、格闘技の試合にプロレス的視点を持ち込むことの異質感にあるのかも知れない。 関連記事(外部): “谷川貞治天皇”のお考えは「前田日明抜きの総合マット界」か!?@マット界をキャプチュード! Labels: 格闘技 Monday, January 14, 2008
アメリカでは1990年代初頭に始まったらしい。
このワシントン大学大気科学のクリフ・マス(Cliff Mass)教授は、学校の数学の授業があまりに酷すぎるから、自分の息子を公文に通わせていたらしい。公文ってアメリカにも進出してるのか、とふと思いウィキペディアで調べてみたら、なんと世界最大の数学塾とのこと。 続き:アメリカのゆとり教育(続) Labels: 時事 「反骨の柔道王」 日本社会において彼は少数派の被差別側の人間だ。こうした不祥事に関しては、世間の目は一般日本人に対するよりも自然と厳しくなる。むしろ優等生を演じるくらいで丁度いいのに、不祥事を二度も繰り返してしまうというのは、ありえないだろう。少数派出身の有名人は、問題を起こしたら同じ少数派に属する他の人にもバッシングがふりかかってくるのだから、最低限の品位は保つ責任くらいあるのではないだろうか? 無論、仮に秋山の事件のおかげで在日のイメージが悪化し、何らかの差別的な扱いを被った人がいたとしても、直接的に悪いのはその差別を行った人間であって秋山ではない。憲法で保証されている個人主義的な平等の理念に厳密に照らせ合わせれば、それは不当な差別でしかない。しかし、現実の人間社会は原子のようにバラバラな個人だけで形成されているわけではない。人間社会は家族、民族、地域共同体、国家、教会、会社など、様々な相互扶助の集団ユニットで成り立っており、その構成員にはしばし連帯責任が問われる。逆に、例えば在日出身で社会的に成功した人物がいれば、他の在日同胞の人々も誇らしく感じ、世間における在日のイメージが向上すれば彼らも恩恵を受けるわけだが、そういう「連帯責任」については当然ながら誰も文句など言わない。それどころかロールモデルとして肯定的に捉えられている。良いことが起こった場合にだけ皆で恩恵を受けて、悪いことが起こった時には別個の個人だ、一緒に扱うのは不当な差別だ、などというのも少々都合が良すぎるだろう。勝手にある集団の一員であると認定されて連帯責任を負わされてしまったのなら問題だが、自由意志で自らその集団の一員であり続け、そう自認しているのであれば、その程度の責任を問われてもやむを得ないだろう(国民としての義務並の責任とは言わないまでも)。特に秋山は韓国におけるデニス・カーン戦後に「わが大韓民国最高!」と自身の民族的ルーツをアピールしているくらいなのだから。 少数派出身だからといって皆が優等生のアンクルトムを演じなければならないなどとまで要求すれば、それは酷な話ではある。全員がマイケル・ジョーダンになれるわけではないし、体面など気にせずデニス・ロッドマンのように自由に生きたい人もいるだろう。差別待遇もヘイトクライムのような極端な差別に至れば大きな社会問題であり、「連帯責任だ」などと言って看過されるべきものではない。しかし、「見る目が厳しい」程度の差別待遇であれば、それはどんな社会においても避けられない定めのようなものであり、ある程度は甘んじて受け入れて生きていかねばならないのではないだろうか? これは民族に限らず他の少数派についても言える。全ての属性において多数派の人間などそういないのだから、程度の差はあれ、それは誰しもが経験する社会の現実だろう。 少数派の有名人の起こした問題は、もとからその少数派グループにつきまとうネガティブなステレオタイプをさらに強化しかねない。昨年、ゲイのカップルが養子にとった男児を性的虐待した事件があったが(BBC: Foster carers jailed over abuse)、そんなことしたらもう本当に取り返しがつかない(欧米にはゲイ=小児性愛者という偏見がある)。これまで性的少数派の人たちが地道にイメージ改善して来た努力があっという間にパーである。こういう事件は実にやるせない。少し前には、格闘技=粗野で乱暴という偏見もあった(参照:袴田事件、ルービン・カーター事件)。そうした点からも、少数派の有名人は殊更行動に気をつけないといけない。 少数派出身の人間が不祥事を起してしまった後の弁明は本当に空しいものがある。例えば外国人犯罪はどの国でも排他主義の格好のネタだが、「メディアが外国人犯罪だけをセンセーショナルに取り上げる、日本人が同じ犯罪を犯した場合よりも厳しく非難しぎる、差別だ」などと文句を言っても、「犯罪者」を「そんなに言うほど悪くない犯罪者」だと言い訳するようなもので、たいへん空しい。無論、もし不祥事を起してしまったなら、臭いものにふたで完全スルーを決め込むわけにもいかず、嫌でも誰かが弁明してやる必要はあるだろう。これは光市母子殺害事件のような凶悪犯罪における弁護と通じるものがある。いかに忌まわしき凶悪犯罪者であろうと誰かが弁護してやらねばならない…まぁ光市母子殺害事件の場合は、死刑反対の人権派弁護団が妙な生き甲斐をそこに見いだしてしまっていて、やる気まんまんのようだが…それにしても、空しい話だ。必死に弁護したところで大して報われないのだから。 少数民族の場合は、犯罪者などとは異なり、その地位を向上したいのであればもっとポジティブな、やりがいのあることが沢山ある。例えば、先述のように、スポーツや芸能、ビジネスなどの分野で逆境にめげず成功者になるなど。少数派を虐げられし、哀れむべき、守られるべき存在であると喧伝したり、不当な差別だと体制(他人)を非難するだけの運動は、どうにも腑に落ちない。「差別利権」などという批判もあるわけで、何より、そんなことだけに人生が費やされてしまっては悲しすぎる。差別と戦うことを生き甲斐にしてしまっているようなプロ市民の方々にはそれでも良いかも知れないが、当の差別されている少数派の人達にしてみれば、差別と戦うためだけに人生を費やすのは空しすぎるだろう。 まぁそうした付帯的な問題はおくにしても、秋山は純粋に総合格闘技選手としても外国人勢にパワー負けしない、ポスト桜庭の中重量級エースとして期待されていた日本人(アジア系)有望株だったから、ほんとうに残念だ。クリーム問題以外は言動も態度もなかなか殊勝だし、キャラ的にも悪くなかっただけに。 Sunday, January 13, 2008
2007年大晦日の秋山戦で勝利した三崎和雄の発言「日本人は強いんです」がちょっとした問題になっている。同イベントを視聴した韓国人の間で、この発言が韓国系日本人である秋山に対する当てこすり的に捉えられたらしい。ちなみに三崎のこのセリフは彼が普段の試合後でもよく口にしているものであり、秋山戦においてのみ特に言ったものではない。一方、秋山は普段の試合後に「柔道最高」と言って締めくくることが多く、三崎は秋山戦後にこのセリフも拝借して「日本人は強いです」と共に言っている。秋山をリスペクトしての発言だと思われるが(三崎もまた柔道のバックグラウンドを持つ)、これも当てこすり的に捉えられた要因になっている感がある。
秋山自身はもともと韓国籍の在日韓国人で、大学卒業後に韓国代表としてオリンピック出場を目指したがかなわず、日本に帰化して今度は日本代表としてオリンピック出場を目指そうとしたという経緯がある(日本代表選考でも最終的には脱落し、その後総合格闘技に転向している)。 また、秋山は2007年10月28日に韓国で行われたデニス・カーン戦後のマイクで「わが大韓民国最高!」と発言している。このデニス・カーンという選手は韓国系カナダ人格闘家で、彼もまた韓国の音楽祭MKMF2006にて「竹島は我が領土」と韓国ルーツをアピールする発言をしている。三崎の発言と同様のコンテキストでなされたこの「わが大韓民国最高」発言のほうは何故か問題にされていない。 秋山も帰化したのなら普段から「日本最高」と言っていれば良かったのに、などと思ったりする。「韓民族最高」なら韓国系日本人である秋山が言ってもおかしくは無いが、「大韓民国」というのは国家名なのだから、今では日本国に忠誠を誓うれっきとした日本国民が言うのはちょっと違うんじゃないだろうか? まぁ外国人芸能人や観光客が日本に来てリップサービス的にそうしたことを言うこともあるが、秋山の場合、対戦相手が韓国系ハーフであったことに加え、自身が日本に帰化した韓人であるという出自を考えても、三崎発言に劣らず微妙であるように思われる。 無論、三崎も秋山も対戦相手を揶揄するような意図で斯様な発言をしたわけではないだろう。三崎の場合は対戦相手が日本人選手であったなら同発言はしていなかっただろうし、その意味では対戦相手の出自をまったく意識していなかったというわけでは無いだろうが、秋山自身も前戦で韓国人ルーツをアピールする発言をしているのだから、三崎が秋山戦を日本人対韓国人的に捉えていたとしても咎められる筋合いは無いだろう。 Labels: 格闘技 Saturday, January 12, 2008
長谷川穂積 イーグルが最初に王座陥落した時のように、試合内容では勝っているのに流血/負傷ストップ負けすると本当に後味が悪いので、そうならなくて本当に良かった。(無論、流血が原因で本来なら貰わないようなパンチ貰い、その結果ダメージ蓄積して劣勢になりストップされるのなら分かるけれども)。 ラスベガスでの興行を目指している長谷川としてはもっと奇麗な勝ち方をしたかったところだろうけれども、流血以外は長谷川が終止試合を優位に進めていたし、相手は指名挑戦者、日本人のバンタム級世界王座防衛記録も更新したから、まぁ良しとしていいんじゃなかろうか。 渡米してパッキャオ並に活躍してくれないかな、などと期待してしまう。 Labels: 格闘技 Wednesday, January 9, 2008
以前はSDFで直にMovable Typeが使えたんですが、いつからかBerkeley DBが使用禁止にされて駄目になった模様。ということで、ftp出力してくれるGoogle Bloggerを利用してみることに。
追記1:SDFでBerkeley DBはまだ使えるらしい。でも最後にMovable Typeのinstallを試みた時には検出されなかったのに…何でだろ? MetaARPAでSQLが使えることも判明。でもMetaメンバーシップ切れてブログのデータ削除されたりしたらと思うと、どうもね…。 追記2:BloggerにはTrackback機能が無いらしい。Backlinkという代替機能はあるけれど、これはblogger以外のblogに対しては使えない(っぽい)。どうしたものかと思案していたら、こんなものを見つけた: ・クリボウの Blogger Tips: Blogger beta に HaloScan をとりつける はてさてちゃんと機能するものなのか。 追記2.1:Trackbackのリンクは出たけれど、Usertable errorというのが出る… 追記2.2:Usertable errorは時間がたったら何故か直りました。Trackbackは、bloggerだと一カ所でしか使えないのだろうか? テンプレートでコード記入するから、記事ごとにID変えられないし… 追記2.3:タグで記事IDをCommentIDに入れればいけるかな? 追記2.4:いけました。 追記3:BacklinkはBlog Searchに自分で登録しないと機能しないらしい。 追記4:Blogger Template Tags 追記5:カレンダー導入。 追記6:Recent comments (最近のコメント) 追記7:Goodカウンター追加。2/24/2008 Labels: その他
日々、思った事を、よく考えもせず、つれづれと書いていきます。ですので、よく考えてみれば自分でも馬鹿げてると思うことや、間違ったことを、書いてしまうかもしれません。
関心分野は政治思想、哲学、格闘技、船戸与一、ラジオ(日本のAM深夜番組、アメリカのtalk radio)など。(プロフィール) ・ブログ管理記録 Labels: その他 |
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